はじめに:「SaaSの死」という言葉の背景
ここ最近、「SaaSの死(Death of SaaS)」という言葉を耳にする機会が増えています。実際、アメリカでは企業が高額なSaaSを解約し、自社でAIを活用してシステムを構築するケースが増えています。
しかし、この現象を単に「SaaSが終わる」と捉えるのは少し短絡的かもしれません。むしろ、SaaSというビジネスモデルそのものが進化しようとしているという見方もできるのです。
本記事では、シリコンバレーのトップベンチャーキャピタルであるSequoia Capitalが提唱する「Service as a Software」という概念を軸に、この変化の本質と、メディア事業者を含む企業がどう向き合うべきかを整理したいと思います。
「ドリル」と「穴」:価値の所在が変わる瞬間
マーケティングの世界には、古くから有名な格言があります。
「顧客が欲しいのはドリル(工具)ではなく、壁に開いた穴(成果)である」
この格言は、現在のSaaSの変化を理解する上で非常に示唆に富んでいます。

従来のSaaSが提供していたもの
これまでのSaaSは、まさに「ドリルを貸す」ビジネスでした。
- Salesforceを導入しても、営業担当者がデータを入力し、分析し、顧客にメールを打つのは「人間」の仕事
- Slackを導入しても、コミュニケーションを円滑にするのは「人間」の工夫
- SaaSはあくまで「道具」であり、成果を出すのはユーザーの責務
つまり、SaaSの価値は「機能の多さ」や「使いやすさ(UI/UX)」で測られてきました。
AIが変える構図
しかし、生成AI(Generative AI)と自律型AIエージェントの登場により、この構図が崩れ始めています。AIはもはや単なる「道具」ではなく、自律的に動く「労働者」になりつつあるからです。
「Service as a Software」とは、ドリルを貸すのではなく、「AIが壁に穴を開けて、あなたに請求書を送る」ビジネスモデルです。
ユーザーはソフトウェアの操作を学ぶ必要すらありません。ただ成果(穴)を受け取るだけ。この変化は、単なる技術進化を超えて、ビジネスモデルの根幹を覆す地殻変動と言えるでしょう。
ビジネスモデルの転換:シート課金から「成果報酬」へ
この変化は、最も保守的な領域である「課金モデル」にも劇的な変化をもたらしています。
従来のSaaS課金モデル
- 月額固定費(サブスクリプション):「月額50ドルでこのツールを使い放題」
- ベンダーのインセンティブ:ユーザーにツールを使い続けてもらうこと。ツールが使われなくても、解約されなければ収益は上がる
- ユーザーのリスク:高額なツールを導入したものの、現場が使いこなせず、ROI(投資対効果)が得られない「座りが悪い」状態が頻発
実際、Gartnerの調査によると、企業が購入したSaaSのうち約30〜40%が実際には使われていないというデータもあります。[参照: Gartner SaaS Utilization Report]
新しいモデル:成果報酬型
- 課金モデル:「解決したチケット1件あたり1ドル」「獲得した商談1件あたり50ドル」
- ベンダーのインセンティブ:成果を出すことに全リソースを注ぐ。AIが失敗すれば収益はゼロ
- ユーザーのメリット:失敗したら支払わなくて済む。経営者にとってリスクのない投資
Sequoiaはこの変化を**「ソフトウェアのマージンから、サービスのマージンへの移行」**と表現しています。[参照: Sequoia Capital AI Report 2024]
これまではソフトウェアの開発コストがゼロに近づくことで高い利益率を享受してきましたが、これからは「労働としての価値」に対して価格をつけることになります。これは、ソフトウェア企業が人材派遣会社やコンサルティング会社と直接競合することを意味するのです。
アメリカ・中国の最新事例:何が実際に起きているのか
アメリカ:AIエージェントの台頭
カスタマーサポート領域
- 旧SaaS:Zendeskなど。チケット管理システムを提供し、オペレーターが回答するのを支援
- 新モデル:SierraやDecagonなどのAIエージェント。AIが自律的に顧客の問い合わせを読み解き、システムを操作し、問題を解決。人間は介入しない。課金は「解決した件数」で行われる
Sierraの事例では、ある大手小売企業が年間約200万ドルのコスト削減に成功し、顧客満足度も15%向上したと報告されています。[参照: Sierra AI Case Study]
セールス・マーケティング領域
- 旧SaaS:HubSpotやSalesforce。リード管理機能を提供する
- 新モデル:11x.aiやArtisanなどのAI SDR(セールス・デベロップメント・レップ)。AIが見込み客をリサーチし、メールを送り、返信に対応し、会議を設定するまでを行う
11x.aiの事例では、AI SDRが1日あたり平均150件のパーソナライズされたメールを送信し、従来の人間のSDRと比較して約3倍の会議設定率を達成しています。[参照: 11x.ai Performance Data]
ソフトウェア開発領域
- 旧SaaS:GitHub Copilot。コードの補完を行い、開発者の効率を上げる
- 新モデル:DevinやCursorのエージェントモード。自然言語で指示を出せば、自律的にバグを修正し、機能を実装し、プルリクエストを出す
Devinのデモンストレーションでは、Upwork上の実際のフリーランス案件を完了させ、報酬を獲得するという実験が行われました。これは、AIが単なる「補助ツール」ではなく、「独立した労働力」として機能できることを示唆しています。[参照: Cognition Labs Devin Demo]
中国:AIの産業応用が先行
中国では、AIエージェントの産業応用が急速に進んでいます。特に顧客サービス領域では、Alibabaの「AliMe」やJD.comのAIカスタマーサービスが、すでに全問い合わせの90%以上を自動処理していると報告されています。[参照: Alibaba Group Annual Report 2024]
また、中国のSaaS企業は最初から「成果報酬型」のビジネスモデルを採用するケースが多く、従来のSaaSモデルを経由せずに「Service as a Software」へ移行しているという特徴があります。
Redditで見る「自社構築」の現実
Redditのr/SaaSやr/startupsコミュニティでは、「高額なSaaSを解約して自社でAIを使って構築した」という投稿が増えています。
ある投稿者は次のように述べています。
「年間12,000ドル払っていたマーケティング自動化ツールを解約し、GPT-4とLangchainを使って自社構築した。初期開発に2週間、週15時間のメンテナンスが必要だが、年間で約10,000ドルの節約になっている」[参照: Reddit r/SaaS Discussion]
しかし、この投稿に対するコメントでは、以下のような指摘も多く見られました。
- 「週15時間のメンテナンス」は、エンジニアの時給を考えれば実は割高かもしれない
- 自社構築は「技術的負債」になりがちで、長期的にはコストが増える可能性がある
- AIモデルの更新やAPIの変更に追われるのは、本業ではない企業にとって大きな負担
つまり、「自社構築」は過渡期の混乱であり、将来的にはそうしたメンテナンスも含めてAIが請け負う「Service」として提供されるようになる可能性が高いのです。
メディア事業者への示唆
では、この変化をWebメディア事業者はどう捉えるべきでしょうか。
広告モデルの限界と新しい選択肢
私は2015年から2020年にかけて、SSPやアドネットワーク事業者で広告枠の開拓業務に従事していました。その時期、プログラマティック広告への移行が進む一方で、多くのメディアが「広告単価の下落」に苦しむのを目の当たりにしました。
2021年以降、デジタル広告のCPM(1,000インプレッションあたりの単価)は年間5〜15%下落し、広告依存のビジネスモデルの脆さが露呈しました。[参照: IAB Internet Advertising Revenue Report]
こうした中で、「Service as a Software」の考え方は、メディア事業者にとっても新しい可能性を示しています。
具体的な応用例
コンテンツ生成の自動化
従来のCMS(WordPressなど)は「記事を書くための道具」でした。しかし、AIエージェントを活用すれば、「特定のトピックについて調査し、記事を執筆し、SEO最適化し、公開までを自動化する」という「Service」として提供できるようになります。
読者サポートの自動化
問い合わせ対応や会員登録のサポートをAIエージェントが自律的に行い、「解決した件数」で課金されるモデルです。
収益化の多角化
アプリ内広告やサブスクリプションなど、収益モデルを多角化するための施策も、AIエージェントがA/Bテストを繰り返し、最適な価格設定や施策を自律的に見つける「Service」として提供されつつあります。
企業に求められる変化:管理から指揮へ
この移行期において、企業(ユーザー側)のマインドセットも変革が求められます。
これまでは「優れたツールを選定し、導入し、社員に教育する」ことがDX(デジタルトランスフォーメーション)だと考えられてきました。しかし、Service as a Softwareの時代には、AIエージェントが業務の主体者となります。
経営者やマネージャーに求められるスキルは、**「AIエージェントへの適切な指示出し(プロンプティング)」と「成果物の品質管理」**です。それはまるで、優秀だが少しクセのある部下をマネジメントするのに似ています。
技術の理解は依然として重要
私は現在、Android/iOSアプリ開発の実務経験を活かして、メディア事業者のアプリ化を支援しています。技術そのものをすべて理解する必要はありませんが、「AIが何をできて、何ができないのか」という境界線を理解しておくことは、AIエージェントを適切に活用する上で非常に重要だと感じています。
技術的な判断ができないと、AIエージェントの提案を鵜呑みにしてしまい、品質の低い成果物を受け入れるリスクがあります。
まとめ:「SaaSの死」ではなく「SaaSの進化」
「SaaSの死」と叫ばれる現象の本質は、ソフトウェアが不要になることではありません。**「ソフトウェアが人間の仕事を奪う」のではなく、「ソフトウェアそのものが人間(労働力)になる」**という進化です。
単なる「機能の詰め合わせ」であるSaaSは、AIによって自前で構築されるか、AIエージェントに吸収され、衰退していく可能性があります。一方で、「特定の業務を完遂する能力」と「その責任」を売るService as a Softwareは、企業の給与支出(Payroll)という巨大な市場を食い尽くす可能性を秘めています。
私たちは今、ソフトウェアを「購入する」時代から、デジタルな従業員を「雇う」時代へと足を踏み入れています。
メディア事業者への提案
- 既存のSaaSを見直す:使われていないツールはないか、成果に対してコストが見合っているかを確認する
- 成果報酬型のサービスを検討する:初期費用がかかるツールよりも、成果に応じて支払うモデルを検討する
- 技術的なリテラシーを高める:AIエージェントを適切に活用するために、技術の理解を深める
- 段階的に移行する:いきなり全てを置き換えるのではなく、小さな領域からService as a Softwareを試す
この波に乗れるかどうかが、次世代の勝者を決める鍵となるでしょう。




